1st Story

Chapter01: 物色女と笑顔の女と窓の外を見る女

Looking, Smiling, and Look out the window

ある雨の朝。時計は朝の5時半過ぎ。

ナナヤは今、『先生』ことアレクサンドル・クルーツィス博士、通称『サーシャ』の家で朝食を作っている。サーシャ、サーシャの息子ヤーン、サーシャの娘レア、そしてナナヤの分。作った後は皆で揃って食べ、その後各々行動する。

誰に頼まれていないこの『日課』をナナヤは平日と土曜日の朝に特段の事情が無い限り欠かさず続けて、既に5年。最早ルーチンワークの領域と言って良いだろう。彼は料理を作るのが得意だ。自宅がレストランで、幼い頃からシェフである母の動きを見、共に手伝いを続けていたこともあってその腕はそこらのプロと引けを取らない。朝が早いことを除いては、彼自身も楽しみながら続けていた。

彼によるこの『日課』は非常に単純なことから始まっている。
その後、理由は何度か変遷を重ねて今に至っているのだが、それは彼の口から説明した方が早い。

私が産まれる以前から、私の両親は先生夫婦と懇意の仲だったのだが、先生の妻……私はお会いしたことはないが、仮に奥様としておこう。その奥様が10年前に病気で早逝してしまった。母は残された3人を気遣い、我が家の近くに移り住むよう勧めた。そしてサンフランシスコから一家でバークリーへ引っ越してきて、時々我が家に来るようになった。

そして先生は私の何かに目を付けたのか、私に料理から機械工学への進路変更を勧めるようになり、なぜか店の客と共に私の両親に私を大学へ進学させるよう説得し続けた。そして紆余曲折の末、私は大学へ進学し、同時に先生の『直接の弟子』になった。 平日は大学、大学休み期間と土日は『ラボ』……今は私の職場でもある場所へ通う毎日。とんでもなく忙しかったことだけは覚えている。

先生には厳しく指導されたが、先生は自宅にある膨大な蔵書や論文を自由に読ませてくれた。
また、先生は結構『抜けた』部分があり、よく忘れ物をし、私に取りに行かせた。今でもしょっちゅうだ。故に私は当時から『この家の鍵』を持っている。

……ここまでが前置きだ。

そして5年前。
先生が『やらかした』のだ。朝食に目玉焼きを作った後、フライパンを火にかけたまま外出。それも強火でだ。古いコンロで安全装置など付いておらず、輻射熱で側に置いてあったものへと引火。キッチンが火事になってしまった。幸い、軽いボヤで済んだが。済んだと言うよりも『済ませた』が正しい。消火作業をしたのは偶然通りががった私だったからだ。

私が『突入』した時、一人自宅に居たレアは何が起こったのかわからず、炎を目にしてパニックに陥っていた。当たり前だ。普通、空のフライパンを火にかけっ放しで外出しない。そして私は火の勢いが弱いうちに『防炎カーテン』と『濡れタオル』を使って鎮火させた。時間にして5分もかからなかったはずだ。

貴重な蔵書などが失われる可能性があったこともだが、それ以上に養女とはいえ娘を危険な目に遭わせたことに対して私は怒り、両親に頼みこんで前日に店で使った食材の残りを分けてもらい、『問答無用』で『この家の朝食を作る』ことにした。

これが、『最初』の動機だ。

あの火事の後、彼女から礼を言われた時。レアの『少し儚げな優しい笑顔』に不覚にも魅了された。いわゆる『恋に落ちた』というやつだ。今でもあの笑顔が忘れられない。時々夢に出てくる程だ。相当重傷だと自覚している。それまでの5年間、彼女と時折顔を合わせることはあっても、彼女は先生かヤーンの陰に隠れてばかりで、私だけでなく店の客や私の両親の前でも表情を変えることが少なく、加えて言葉を発することも殆ど無かった。そのギャップに打ちのめされた形になる。

先にも述べた通り、この朝食作りは先生への怒りに任せて始めたものであって、レアが目的だった訳ではない。

次の動機。母が先生に近くに引っ越しを勧めた理由が関与する。先生は根っからの研究者で『壊滅的レベルに家事が出来ない』。奥様も相当苦労していたらしい。それだけでなく、末期癌を患いながらも懸命に家族を支え続けた母親を喪って間もないレアとヤーンを気の毒に思ったからだった。そのこともあり、母は夜の営業の仕込みの合間にヤーンへ料理を教え、塞ぎ込むレアを励ました。父も先生の突発的行動に何度も振り回された経験から目を光らせていた。そして私も『火事』がきっかけでこの仲間入りを果たした形になる。それ以前に、私も先生の所へ弟子入りした時点で一家に介入することは避けられなかったのだろう。

そして三つ目の動機。ここからレアが目的になる。最初は単純にレアの顔が見たかったからだった。この頃にはレアも先生やヤーンの陰に隠れることが少なくなり、表情も徐々に明るくなっていた。当然ながら彼女と話す機会は無かったが、朝に軽く挨拶出来るだけで私は満足だった。

四つ目の動機。変わらず私と彼女との会話はほとんど無い。しかし挨拶を交わすうちに、彼女を纏う雰囲気が以前に感じたものと全く違っている事にに気が付いた。見た目等のわかりやすい変化は無い。言葉遣いも変わっていない。雰囲気だけが違う。私はそれがやけに気になってしまい、彼女を観察したい要求を抑えられなくなっていった。

そして今の動機……と思ったところでナナヤは不意に視線を感じた。
彼は今フライパンを片手にオムレツを作っているが、『品定め』をされているような感覚に陥っていた。品定めされているのはオムレツなのか、ナナヤ自身なのかはわからないが、この視線も彼にとっては慣れて久しい。しかし、視線を送ってくるはずの『存在』はすぐ近くに見当たらない。

「雨の日はたまんねぇな。気分は落ち込むし頭はボサボサになる。道路は間違いなく渋滞する。最悪尽くしの朝だ」
不機嫌そうにサーシャが濃蜜色の癖毛を搔きむしりながら彼に話しかけてくる。声が普段より低くなっているので『相当機嫌が悪い』とナナヤは判断し、サーシャの愚痴を聞き流す。そして、彼が最後のオムレツの形を整えることに集中しているうちにダイニングキッチンに家族全員が揃っていたことに気が付いた。

ナナヤの左腕の時計は5:45AMを指している。予定通りだ、とナナヤは自信ありげに思った。

「おはよナナヤ。今日はオムレツか。よくこんなキレイな形で作れるな」と興味津々にヤーンが彼へ声を掛けてくる。「火加減が難しいかもしれないが、慣れるとそうでもない。できたぞ」とナナヤは『素』で返す。「ナナヤさん、おはようございます」鈴のような声でレアが挨拶をする。しかし、そこにナナヤの言うところの『儚さ』は微塵も無い。

彼女は薄いグリーンのワンピースに身を包み、コーラルピンクのチークにヌードベージュのリップをしていた。薄いナチュラルメイクである。彼女は名前通りの類い稀なる容姿からなのか、服装やメイクは非常に地味なものを好む。まるで自らの存在を隠すように。そんなナナヤの視線と分析に気付くことなくレアは冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しているが、同時に何かを観察しているようにも見えた。

ナナヤは彼女の行動の観察を中断し、出来上がったオムレツを、レタスとトマトのサラダが盛られた皿へと手早くかつ丁寧に盛り付け、最後にクレソンを一房添えた。ダイニングテーブルの上には焼きたてのバゲットに細かい賽の目に刻まれた人参とタマネギ、ベーコンが入った野菜スープとマンゴージャムが添えられたヨーグルトが並んでいる。その華やかな見た目は星付きホテルの朝食と並べても決して見劣りしないだろう。そしてサーシャとナナヤ、ヤーンとレアが並び、向かい合ってテーブルを囲む。

「「「「いただきます」」」」

食前の挨拶をする習慣が無いこの国であるが、ナナヤの影響で皆が口にするようになっていた。ナナヤはアメリカ人と日本人のクォーターである。そのためかこの食前の挨拶の他にも数々の日本文化を彼は日本人の祖父やハーフの母から教わっていた。そして何かが迫っているのか、4人全員が一言も発さずに黙々と平らげていく。

「「「「ご馳走様でした」」」」

これもナナヤの影響である。そしてこれを合図に各々が動く。
ナナヤとサーシャは階下のガレージへと向かい、ヤーンは大学で使う写真機材の確認を始め、レアは空になった皿を流し台へと運ぶ。

階下にあるガレージには車が2台停まっていた。黒のコンパクトカーと青のSUV。黒い車はサーシャの、青い車はヤーンのものである。半地下のガレージの天井高はサーシャの身長とさほど変わらない。同様に、サーシャと比べ僅かに身長が低いナナヤでも、軽く爪先立ちをすれば頭を打ちつける低さである。そして何かを支えるように柱が増設された空間は、厚みのある木造の扉を開いてやっと、重苦しさから開放された。

「俺は先に行く。お前も雨で苛ついた『野生動物』には気を付けろ」
サーシャはナナヤに言いながらフロントドアを開き、エンジンを始動させる。電子音の後に黒のボディが奏でる品のいい始動音から始まる音は『明らかにボディと一致しない』音をしていた。よく見ると、ホイールも純正のものと異なっている。「古い車だが、エンジン以外にも『いろいろ』手を入れているぞ」と子供のように熱く語っていたことをナナヤは思い出した。車も機械のうち……機械に対して目が無い師匠ならではの言葉である。

ナナヤとサーシャの後ろでヤーンは黙々と後部座席を畳んだ荷台へテキパキと機材を載せていた。学生の傍らフリーの写真家として活動している彼にとって、車に機材を積むことは手慣れたものである。普段は自転車で大学へと通っているが、滅多にない大雨による機材への影響を懸念し、前日から車で行くことを決めていた。抜け目の無い彼ならではの選択である。

そして、一通りの後片付けを終えたレアもガレージにやって来た。先程とは雰囲気が打って変わり、何かを探るような気配は失せ、『穏やかな笑顔』を浮かべている。

「雨ですし、お父様もヤーンも気をつけて行って来てくださいね」
「おう。行ってくる」「わかった姉ちゃん」

そして二人は雨の道へと車を走らせた。

ガレージにはナナヤとレアの二人だけである。
ナナヤは声を掛けようとしたが、言葉が出ない。いつものことである。恥ずかしいのではなく、何をどう話せばいいのかわからないからだ。

しばらくの沈黙の後、レアは「いつもありがとうございます。ナナヤさんも気をつけて行ってきて下さいね」と『華やかさの混じった笑顔』で言い、ナナヤが調理中に洗浄し、水切りをしていた空き容器を手渡し、そのままナナヤが立ち去る姿を見届けた後、ガレージの扉を閉めた。

今日も『彼女』じゃない……。
振り返ることなく、ナナヤは何度目かわからない落胆をした。しかし彼には時間が無い。ガレージの脇に停めていたシルバーのSUVに乗り込み、急いで家へと戻る。

帰宅したナナヤは空き容器をレストランの厨房に置き、リビングに置いてあった使い込まれたリュックサックを手にして再び車に乗り込む。それと同時にジーンズのポケットから右手で黒いスマートフォンを取り出し、ハンズフリーモードに変えて助手席へと放り投げる。同時に左手でイグニッションキーシリンダーに差し込まれたキーを回すと、甲高い音の後に、地響きにも似た音が周囲へと響いた。

天気が雨であること以外は何もかも変わらない、普段通りの毎日。ナナヤは時折、回り道をしてサーシャの家の前を通ることがある。レアから以前に朝は『書庫』に居ると聞いていたからである。運良く窓際に居る姿を見られれば良い程度に思っていたが、一度も見る事は無かった。これも、変わらない毎日の一片である。

しかしこの日は違った。家の2階……ダイニングキッチンとガレージの真上にある書庫の窓に、外を見るレアの姿があった。その表情はどこか虚ろであり、達観しているようにも見える。そして、偶然にも赤信号で車を止めていたナナヤに気付いた彼女は『少し儚げな優しい笑顔』で彼に向かい、そっと手を振った。

「……なっ」

思わずナナヤは声を漏らす。眼鏡の下の表情も、微かに驚きの様相を見せる。そのレアの表情にナナヤは『見覚え』があったからだ。

5年前、彼の心を一瞬のうちに掴んだ『彼女』。
『火事の時に助けた彼女に会いたい』
これがナナヤの『現在の朝食作りの動機』なのだ。

ナナヤは信号が変わったことに気付かない。後方から響くクラクションで現実へと引き戻された彼は、驚きの余韻と共にアクセルを踏み込んだ。